般若心経あれこれ

2011年1月25日

以前の日記を読み返すとかろやかだ。ものごしが
もっと、なんでもない。なんでもないようでいて
野心的なにおいも秘め、ここちよい、こきみよい。

クレピト制作の布石が描かれていて面白い。
「クレピト」のリミックスの想を得たのは嵐の日、
六本木が台風で荒れ狂っていた時のことだった。
荒れ狂っていたからといって、べつにぼく自身がどうと
いうわけではないのだけれど。

詩人の池野絢子さんに会っていたのだという。

その後、池野さんにはトリノで2度お会いして、
クレピトをイタリア語に翻訳して貰った。
今でも大事なもののひとつ。

***

昨日はここで「般若心経」 について書こうと思っていたのだ。

「色即是空、空即是色」ばかりが何か言葉として有名だけれども、
その後の続きを読めば、
「受」も「想」も「行」 も「識」も、
「受即是空、空即是受」
「想即是空、空即是想」
「行即是空、空即是行」
「識即是空、空即是識」
つまり、「五蘊即空、空即是五蘊(=五蘊皆空)」なわけで、
なんで 「色」ばかり独り勝ちしているのだろうと、
疑問に思うのです。

あと、「・・・も無し」「・・・も無し」とナシナシ尽くしであるけれど、
「・・・が無い」という前に、
たとえば「老死が無い」という前に、まず、
修行の浅いぼくとしては、「老死がある」 ことをしっかりと真正面から
受け止めないことには、それにとらわれていることもできないから、
「老死が無い」なんていうにはまだ100年早いなあ…

「般若心経」ってさらっと短くまとめて書いてあるけれど、
理解してそれを生き方に実践するには
たくさん押さえておかなければならないことがあるわいな。

Sonar

2011年1月17日

舟、塔たてるひびきをめざし

めぐれ、よき風に乗り

塔へとつづくラスタをたどり

はなて、満ちることを知る前に

舟の端より

とびたつ鳥はうつくしい

 

 

牛も山羊も鶏も犬も人も猫もねずみも虫も

深い霧の中

隠されたランプの

火の光にうるむ

 

葉をはむチャゴール

おびえてわらうククールの声

 

 

右舷にかたむき

左舷にかたむき

 

砂は落ちる

 

知らずに進むこの舟に名を

あるいは光ゆたかに田園をひらく雲の影のように、走る

音なき砂のひびきに名を

結婚します。
その相手が、ゆみが2年間ボランティアに行っていた国へと行って参りました。
人と車とクラクション、砂と埃のあいだにあって、
たった5日かそこらの短い滞在でしたが、生活するのが大変な国でした。
またそこから導かれた言葉で詩を少し書きました。

思えば10月の下旬から、詩集の編纂と平行して熊本での宗立専門僧堂、結婚のご挨拶、正月、バングラと
慌ただしい3ヶ月でしたが、どうにかこれでひとくぎり。

メモを手がかりに言葉で遊ぶ、iMacの日々にもどりたい。

詩集を刊行していただいたふらんす堂さんには迷惑をかけっぱなしでした。

さて、これからお坊さんと新年会、
ちいさくなってボーリングの玉を転がして参ります。

コラム(13) 御霊具膳考 – 禅僧の台所〜オトナの精進料理.

こういった知識は、「このやり方が正しい」というふうに
ウェブ上で伝えない方がよいと思う。

たしかに、核家族化など、現代における家族形態の変化にともない、
家庭内で伝えられていくべきことがしっかりと伝えられない社会において、
それを情報として不特定多数の人々に伝えるというような、
ウェブが補完しうる力は大きい。

しかし、ドグマティックとまではいわないにしても、
統一されたものとして、
いかにもそれが日本ではどこにおいても正当というようにして書くのは、
ウェブの力を誤用することにも繋がる。

特に、このブログの内容のように、
並べ方を「オーソドックス」なものとして掲げられると、
それが正当のように思われてしまう。

現に、私のお寺ではこの写真とは違ったような並べ方をして、
檀家さんに教えている。

仏教は人から人へ、
地域から地域へと伝わったものであるからこそ、
その土地土地の豊かさを尊重するように、
常に気を払いながら真理を伝えることを忘れてはならん。

布教はいつも一対一。

不特定多数に説かれた教えは一つもないのだから。

水面下でチャクチャクと企画を練っています。企画を練るのはよいのだけれど、なにせ一人なもんだからなかなか形になっていかない。とりあえずは、5月の坐禅会の準備を進めながら、お寺のウェブ管理やら何やらと、気づいたら一日が終わっている。

毎日の檀家参りで町の情報を仕入れつつ、朝起き抜けに坐禅をしつつ、お寺参りをこなしつつ、お坊さんのコミュニティにとけこみつつ、それでもだんだんと生活のリズムも出来てきたように思う。

詩人の清水あすかさんが「空の広場(カラノヒロバ)」初号を八丈島から送ってくだすった。
たいへんいい刺激を受けて、ほくほくしつつ、

お寺で坐禅会

2010年4月20日

お寺で×カレー×坐禅会かなーと。いう案が…
来月末にでもやろうと。

地元のフリーペーパー、かわらばん
なめられません。
おそらくここではネットより強い。

歎仏会

2010年4月14日

地元では一番大きなお寺で歎仏会という法要を行う。
たんぶつえ。

檀家さんやギャラリーは一切無く、あくまで内々で、
僧侶が40人ほど集まって夕暮れ時に執り行われる。

こういった儀式は好きだ。
何の利害にも関わらないからだ。
ただ、仏を讃歎せんがために、
僧侶がお経を唱え、節をつけて読み、
何度も頭を地につけて礼拝する。

永平寺にいたときにも感じていたことが、
ここでも感じられてた。

何のためでもなく、ただただ手を合わせるところに、祈りがある。

ここ新天地ではわからないことばかりだが、
それだけに一々が新鮮だ。

今後の詩の方向性をぼんやりと思いながら、
(二つやりたいことがある。おそらくは一生涯かけて)
今日も車を西へ東へ走らせた。

歎仏の前に昼、
お寺の役員さんの慰労会のために湯の川の温泉に行く。
2曲歌わされる。
ふむふむ

続・お寺らいふ

2010年4月13日

お寺参り。地域の同宗派のお寺で行われる春彼岸(この地域では、+涅槃会。花祭りの季節なのに、涅槃会)に、他のお寺のお坊さんが呼ばれ、集い、法要を行う。ほぼ毎日、お寺参りが午後にあるので、地元を西へ東へ車を走らせている。

お寺参りでは、各お寺によって、お坊さんに供養されるお膳が異なる。大豆を砕いた味噌汁が出されたこともあれば、ハンバーグ、しゃぶしゃぶ、今日はエビフライといろいろです。それぞれのお寺のお膳にもカラーがある。それでも共通して決まっているのは、うどんかおそば、おにぎりもあるということ。暗黙の了解?ふーむ。

ジャンプを買って免許証の住所の書き換えをした。
啓白文の現代語訳を終える。
自由詩みたいに訳してみる。

リンク

2010年2月17日

このブログもまだ始まったばかりなので、
コチョコチョと付け加えたり、
消したり、いろいろすると思いますが、
今日は、右下にあるリンクをいじってみました。

以前のcolmenaをのぞいた、
「寺らいふ。」
「大陸浪人のススメ」
はともに、現在ぼくが所属しているところの同僚のサイト。

どちらもおもしろいのでクリックあれ。

現在所属している機関自体には絶望することが多かったけれど、
ほんとうに、同僚には特に助けられている。
みんなお坊さんやけど、
個性あふれるだけではなく、
スキルがともなっていて、
人間としてもおもしろい、
「寺らいふ。」のひとは物作り、特にデザインに長けていて、
「大陸浪人」のひとは、中国語ぺらぺらで、めちゃくちゃ本読んでいるし、
エネルギー、しゃれならん、刺激になる。

あと三週間でまた離ればなれというのもまた寂しいのう。

ちなみに、「寺らいふ。」の上のバナーは、
ぴーんときた人もいるでしょう。
そう、ぼくです。

沈黙を破る

2010年2月11日

新宿ちかくにある経王寺で行われた
『沈黙を破る』という、「パレスチナ・イスラエル問題」をテーマにした
ドキュメンタリー映画の上映会に参加した。

「平和を学び・考え・願う青年仏教者の集い」、
「平仏集(へいぶつしゅう)」というグループによって主催されたもので、
ふだんなら、正直なはなし、自分から進んで参加しようとは思わないのだが、
薦められて行ってみて、正解だった。

やはり、自分の領域を超えて参加することは大事だ。
行った方がいいのだろうけど、気乗りがしない、
てものには、進んで飛び込んだ方が得られるものもまた多いのだと、
再認させれれた。

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新大久保

2010年2月5日

山手線を半周して新大久保へ。
東南アジアのテーラヴァーダ仏教に詳しい曹洞宗のお坊さんに連れられて、
同僚とともにタイ料理屋へ。

東南アジア諸国における、
特に、タイとミャンマーにおける仏教のありようについての
お話を聞けて面白かった。

テーラヴァーダ仏教というと、
戒律を守っている厳格なお坊さんのイメージが強い。
もちろん、そうなのだが、
それがすべてではないという。

タイにおいて、より釈尊の教えに近い形で修行しているお坊さんの姿を見ると、
組織とか財政とか、政治的なこととかないようにみえるけれど、
もちろんそれは幻想であって、
祈祷や呪術的なこともすれば、お葬式だってしている。
教団のトップは、タイの場合、皇室が絡んでいたりもする。

やはり、宗教というのは、純然たる教義的なものだけが、
現実から離れてプカプカと浮いているのではなく、
その土地の伝統・文化に根付いた民俗的な信仰や風習が、
大きく関わってくる。

宗教のなかに、民俗的なものが入り込んでいるというよりは、
民俗的な信仰や風習に宗教が入り込んでいるというほうが適切なのかもしれない。

現在、ヨーロッパやアメリカで、東洋的なものとして仏教が
取り入れられ、それを実践している人もいるが、
なかには、純粋な教義的なものだけをすくいとってそれを正当だとし、
もともとの 、民間に根付いた仏教を批判しさえする者もいる。

経済的なバックアップがあって、
自分たちの集団が一世代で満足するようなものでいいのなら、
それでもいいかもしれないが、それを宗教と呼ぶにはほど遠い気がする。

何も、宗教が民俗的なものにまみれて、教義的なものを曖昧に疎かにしていいというのではない。

宗教というものの性質として、
民俗的な部分を無視することはできない、
むしろ、それによって支えられ、
その民俗的な部分のなかで生活している人々を支えてこそ、
そうした両輪関係にあってこそ、
はじめて、宗教が宗教たりえるのだろう。