一大叙事詩

2011年2月14日

一大叙事詩を書きたいねぇ
夢だねぇ

般若心経あれこれ

2011年1月25日

以前の日記を読み返すとかろやかだ。ものごしが
もっと、なんでもない。なんでもないようでいて
野心的なにおいも秘め、ここちよい、こきみよい。

クレピト制作の布石が描かれていて面白い。
「クレピト」のリミックスの想を得たのは嵐の日、
六本木が台風で荒れ狂っていた時のことだった。
荒れ狂っていたからといって、べつにぼく自身がどうと
いうわけではないのだけれど。

詩人の池野絢子さんに会っていたのだという。

その後、池野さんにはトリノで2度お会いして、
クレピトをイタリア語に翻訳して貰った。
今でも大事なもののひとつ。

***

昨日はここで「般若心経」 について書こうと思っていたのだ。

「色即是空、空即是色」ばかりが何か言葉として有名だけれども、
その後の続きを読めば、
「受」も「想」も「行」 も「識」も、
「受即是空、空即是受」
「想即是空、空即是想」
「行即是空、空即是行」
「識即是空、空即是識」
つまり、「五蘊即空、空即是五蘊(=五蘊皆空)」なわけで、
なんで 「色」ばかり独り勝ちしているのだろうと、
疑問に思うのです。

あと、「・・・も無し」「・・・も無し」とナシナシ尽くしであるけれど、
「・・・が無い」という前に、
たとえば「老死が無い」という前に、まず、
修行の浅いぼくとしては、「老死がある」 ことをしっかりと真正面から
受け止めないことには、それにとらわれていることもできないから、
「老死が無い」なんていうにはまだ100年早いなあ…

「般若心経」ってさらっと短くまとめて書いてあるけれど、
理解してそれを生き方に実践するには
たくさん押さえておかなければならないことがあるわいな。

タンガイルで詩人に会った。
ファルックという、ぼくとほとんど歳のかわらないくらいの青年で、
短い時間ではあったけれど、
詩について語り合った。

聞こえる音と聴いている音について。
ふだん日常生活を送っていて、
人は聞こえてくる音をすべて聴いているわけではない。
好ましい音のみを聴き、好ましくないものをできるだけ聴かないように、
音を聴き分けながら過ごしている。

彼は詩の中で、どんな音を自分が聞き、聴き取り、
好ましく思い、そしてそれをどう感じているのか、
それを実践しているのだという。

聞こえてくる音とじっさいに聴いている音。

そしてそこから敷衍して、
紙に記された詩篇にも同じ事が言えるのではないかという話になった。

文字と白紙。

彼は大学での知識もなく、
バングラデシュにいてフランスで150年前に語られたことについて 知るすべもないのにもかかわらず、
文字と白紙の緊張関係について目を輝かせて語っていた。

ショブド(音)とニ・ショブド(無音)。

詩がショブドで語られるかぎり、
そこにはニ・ショブドの詩がある。

バングラデシュでの古くて新しい
詩との出会いだった。

 

Sonar

2011年1月17日

舟、塔たてるひびきをめざし

めぐれ、よき風に乗り

塔へとつづくラスタをたどり

はなて、満ちることを知る前に

舟の端より

とびたつ鳥はうつくしい

 

 

牛も山羊も鶏も犬も人も猫もねずみも虫も

深い霧の中

隠されたランプの

火の光にうるむ

 

葉をはむチャゴール

おびえてわらうククールの声

 

 

右舷にかたむき

左舷にかたむき

 

砂は落ちる

 

知らずに進むこの舟に名を

あるいは光ゆたかに田園をひらく雲の影のように、走る

音なき砂のひびきに名を

結婚します。
その相手が、ゆみが2年間ボランティアに行っていた国へと行って参りました。
人と車とクラクション、砂と埃のあいだにあって、
たった5日かそこらの短い滞在でしたが、生活するのが大変な国でした。
またそこから導かれた言葉で詩を少し書きました。

思えば10月の下旬から、詩集の編纂と平行して熊本での宗立専門僧堂、結婚のご挨拶、正月、バングラと
慌ただしい3ヶ月でしたが、どうにかこれでひとくぎり。

メモを手がかりに言葉で遊ぶ、iMacの日々にもどりたい。

詩集を刊行していただいたふらんす堂さんには迷惑をかけっぱなしでした。

さて、これからお坊さんと新年会、
ちいさくなってボーリングの玉を転がして参ります。

ほったらかして

2010年10月13日

ほったらかして
いるのすけ

白井明大さんの第3詩集『歌』、
すごいわ。

10年で追いつかないと。

コラム(13) 御霊具膳考 – 禅僧の台所〜オトナの精進料理.

こういった知識は、「このやり方が正しい」というふうに
ウェブ上で伝えない方がよいと思う。

たしかに、核家族化など、現代における家族形態の変化にともない、
家庭内で伝えられていくべきことがしっかりと伝えられない社会において、
それを情報として不特定多数の人々に伝えるというような、
ウェブが補完しうる力は大きい。

しかし、ドグマティックとまではいわないにしても、
統一されたものとして、
いかにもそれが日本ではどこにおいても正当というようにして書くのは、
ウェブの力を誤用することにも繋がる。

特に、このブログの内容のように、
並べ方を「オーソドックス」なものとして掲げられると、
それが正当のように思われてしまう。

現に、私のお寺ではこの写真とは違ったような並べ方をして、
檀家さんに教えている。

仏教は人から人へ、
地域から地域へと伝わったものであるからこそ、
その土地土地の豊かさを尊重するように、
常に気を払いながら真理を伝えることを忘れてはならん。

布教はいつも一対一。

不特定多数に説かれた教えは一つもないのだから。

絶え絶えだ

2010年8月14日

生きてます。

クレピト

2010年7月2日

寺こや自然塾

2010年6月15日

ボラット: 【2010/7/25(日)~7/26(月)】お寺に一泊!ふるさとの自然に触れる夏休み.

面白

2010年6月15日

『自分の体で実験したい――命がけの科学者列伝』L.デンディ& M.ボーリング著/梶山あゆみ訳紀伊國屋書店.